Dr.Kの挑戦(第10回)健康経営

従業員の健康増進への投資が労働生産性の向上につながる

 これまで取り上げてきた生活習慣病治療に関する概念(Metabolic MemoryとLegacy Effect)について、理解していただけたでしょうか。私はこの概念が最大限生かされる医療の場面は産業衛生の現場だと考えています。今回は医師の立場を超えて、私の2枚目の名刺である「労働衛生コンサルタント」の立場から企業の「健康経営」に関して情報発信したいと思います。

 医師Dr.Kの別の顔(2枚目の名刺)である労働衛生コンサルタントについて紹介させていただきましたが、総括安全衛生管理者(事業場長)、産業医、衛生管理者又は衛生推進者等関係者の方々に対して、疾患を抱えた従業員の治療と就労の両立を支援する「健康経営」の重要性について紹介したいと思います。

 健康経営とは、アメリカにおいて1992年に出版された「The Healthy Company」の著者で、経営学と心理学の専門家、ロバート・H・ローゼン(Robert H. Rosen)によって提唱された経営戦略であり、従業員の健康管理を重要な経営課題とし、戦略的に取り組む経営手法のことです。働く人の健康増進を重視し、企業の従業員に対する健康管理を経営課題として捉え、その実践を図ることで従業員の健康の維持・増進と会社の生産性向上を目指す経営手法のことを言います。

 これまで別々のものとして独立していた「経営管理」と「健康管理」を統合し、従業員個人の健康増進を企業の業績向上に繋げるという考え方です。従業員の健康を重要な経営資源として捉えて、健康づくりの推進を「コスト」ではなく「将来への投資」と捉える前向きな考え方に企業の関心が高まっています。「健康投資」というコンセプトは、想像以上に産業界で伸びてきています。2010年10月には経済産業省が、「企業の健康投資ガイドブック」を発刊し、東京証券取引所も「健康経営銘柄」というものを指定しました。さらに、2011年に行われたダボス会議の世界経済フォーラムでは、企業が従業員の健康に投資をすると社員のモチベーションがあがり、離職率が激減することで、そのリターンは1の投資に対して3.27倍にもなるというレポートが提出されています。

 従業員の健康管理を重要な経営課題の1つとして経営的な視点で向き合う「健康経営」の対極にあるのが、企業を負のスパイラルへ追い込んでしまう「不健康経営」です。健康管理を怠ると従業員の体調不良が続き、モチベーションや集中力が下がってしまいます。それによって、労働生産性が大幅に低下するだけでなく、遅刻や早退、欠勤、退職の頻度が高まり、採用コストが増加してしまいます。このような企業体質が蔓延し慢性化すると、業績が悪化し、企業イメージも悪くなってしまいます。企業収入が減少して資金不足に陥り、健康投資をする余裕がなくなると、負のスパイラルが生じてしまいます。

 健康経営とは、「企業が従業員の健康に配慮して健康増進に投資することによって、経営面においても 大きな成果が期待できる」との基盤に立って、健康管理を経営的視点から考え、戦略的に実践することを意味します。従業員の健康管理・健康づくりの推進は、単に医療費という経費の節減のみならず、生産性の向上、従業員の創造性の向上、企業イメージの向上等の効果が得られ、かつ、企業におけるリスクマネジメントとしても重要です。従業員の健康管理者は経営者であり、その指導力の下、健康管理を組織戦略に則って展開することがこれからの企業経営にとってますます重要になっていくものと考えられます。

 少子高齢化社会が深刻化している今、企業に求められているのは生産性の向上と労働力の確保です。2019年4月に「働き方改革関連法」が施行されたことによって、働く人の健康管理をしながら、いかに生産性を引き上げることができるかに関心が高まっています。

 では、政府が推進し話題となっている「健康経営」の中身は、どのような経営方針のことを示すのか。

 近年、企業の従業員のメンタル面、フィジカル面の双方の状態を改善する取組を全社的に行い、従業員の健康増進を図ることで企業の生産性の向上につなげることを主な目的として従業員への健康配慮の必要性が高まりをみせています。

 食生活や運動習慣、飲酒、喫煙、メンタルなど従業員自身の健康管理に対してアプローチする方法と、労働時間や業務空間など企業のシステムに対してアプローチする方法があります。また、医療費データベースを活用して疾病の原因を究明する取組も行われています。 その効果としては、短期的には疾病の従業員の長期休業の予防、企業の医療費負担の軽減、企業のイメージアップが認められ、長期的には企業の退職者に対する高齢者医療費負担の軽減、従業員の健康寿命の長期化が見込めるとされています。

 アメリカでは高騰する従業員の医療費負担が企業経営の根幹にかかわる事態になっていたことをきっかけとして、従業員の健康促進にかかる費用を投資ととらえ、1990年代から広がりをみせました。これにより、業績の向上につながり、投資1に対しその3倍のリターンが得られることを示した実証研究もあります。

 日本では2009年頃から主に大企業を中心にアメリカでみられている取組が始まっています。 そもそも、これまでの日本のデフレ経済下において、企業の人的コストの削減により、ブラック企業やワンオペ、長時間残業といった言葉に代表される従業員の労働環境の悪化していたことにより、自殺や労働災害としての裁判などの実害やリスクが、従業員側、企業側の双方において顕在化したことも、従業員への健康配慮の必要性が高まりを後押ししたと考えられます。 加えて、全国の健康保険組合の赤字額が合計で3,689 億円(平成 26 年度)に達し、赤字補てんとして企業の負担が増えていることから、従業員の健康増進により短期的、長期的観点で医療費削減をすることも目的の一つとなっています。政府としても、「国民の健康寿命の延伸」を日本再興戦略に位置づけており、2015年12月からは、一定規模以上の企業にはストレスチェックが義務化されることになりました。

 健康経営は従業員にとって「健康増進ができる」「生き生きと働くことができる」といったメリットがありますが、企業にとっても多くの利点があることを忘れてはいけません。まず、健康増進の取り組みによって従業員の心身のストレスが軽減し、疾病による欠勤率が低下することによって、仕事に対するモチベーションが上がり、労働生産性を向上させることができます。

 次に、健康経営の取り組みを情報発信することで、従業員の健康に配慮している企業として認知され高く評価されます。また「健康経営銘柄」や「健康経営優良法人」に選出されることで、企業価値が向上し、優秀な人材が集まりやすくなります。さらに、従業員の健康への配慮は、疾病やメンタルヘルスによる不調を予防するだけでなく、従業員に安心感を与え、企業に対する貢献意欲を高めます。労働環境を整備することで、従業員の満足度が向上し定着しやすくなるため、離職率の改善が期待できます。最終的には、健康経営の導入により従業員が健康になると、疾病率が下がり企業が負担する医療費は軽減します。また、退職者に対する高齢者医療費に関わる負担額の削減や、疾病を原因とした長期休暇取得率の低下にも繋がります。

 PDCAサイクルを回すことによって幾度もの効果測定と評価、改善を繰り返すことによって、企業と従業員の双方にとって最適な健康施策を作り上げることができるよう「労働衛生コンサルタント」として情報発信していきたいと考えています。

  • PDCAサイクル(PDCA cycle、plan-do-check-act cycle):

  生産技術における品質管理などの継続的改善手法。

  Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)の 4段階を繰り返すことによって、業務を継続的に改善する。

  1. Plan(計画):従来の実績や将来の予測などをもとにして業務計画を作成する。
  2. Do(実行):計画に沿って業務を行う。
  3. Check(評価):業務の実施が計画に沿っているかどうかを評価する。
  4. Act(改善):実施が計画に沿っていない部分を調べて改善をする。フォームの始まり